『智慧の相者は我を見て』

"wisdom" "conception"といった抽象名詞の訳語を選択する時は、いつも迷いに迷い、文章にそぐうモノを熟考させられることになる。

"wisdom"の訳語の内ジーニアス英和辞典に載っているものは
英知・知恵・分別・賢明な教え
等であるが、英知・知恵等といった言葉を使う時は同音同義でもっとカッコイイ「叡智」「智慧」といった言葉を使いたい衝動にしばしば駆られる。

智慧という言葉で思い出されるのは、蒲原有明の「智慧の相者は我を見て」という詩である。

蒲原有明は死後60年の人であるから、著作権上は問題ないので全文を載せてみたい。

智慧の相者は我を見て』

智慧の相者は我を見て今日し語らく、
汝が眉目ぞこは兆悪しく日曇る、
心弱くも人を恋ふおもひの空の
雲、疾風、襲はぬさきにのがれよ

噫遁れよと、嫋やげる君がほとりを、
緑牧、草野の原のうねりより
なほ柔らかき黒髪の綰の波を、―――
こを如何に君は聞き判きたまふらむ。

眼をし閉れば打続く沙のはてを
黄昏に項垂れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獣がととがめたまはめ。

その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色の物憂き姿、―――
よしさらば、香の渦輪、彩の嵐に。


この詩はソネット(十四行詩)と呼ばれる西欧の詩形を踏襲したものである。西欧では詩人の誰しもが手がける普遍的な詩形らしいが、邦語の場合は語数、韻律共に減衰されかねない物だが、この詩は十分にその魅力を引き出している。

内容には長くなるので詳しくは触れないが、智慧の相者というある種の預言者に運勢が悪いから今の女性とは別れた方が良い、と言われるが、幻想的な自然よりも美しい彼女から離れる事はできない。全てに身を任せてみよう。といった感じであろうか。

第一連の雲、疾風が第四連で香の渦輪、彩の嵐と正しく"象徴的に"言い換えられているのが、実に好みである。


※参考文献『詩を読む人のために』三好達治