堀口大学 『朝のスペクトル』

"官能的"とは様々な方面で使われるが、私が官能的、という言葉を聞いて真っ先に思いつくのは、この詩である。エロティック且つ鮮やかな描写が素晴らしくイイ。

『朝のスペクトル』

これもその頃の事なんです。
(私は今さびしくそれを思ひ出す)
私が幸福に満ちてゐた、
これもその頃の事なんです

銀いろの額を持つた朝が来て、
私は快く眠りから覚める、
そして私は先づ、
私の片頬にからみついた
絹糸のやうにやわらかなお前の髪の毛を
そつと払いのける、
(そつと! お前の眠りを驚かさぬやうに!)
然し、お前は私のこの合図を待つてゐたかのように、
そっと片目だけ開く、
まぶしさうに、
次いで微笑と一緒に、
も一つの片目が開く、そして、
"BON JOUR, MON AMOUR!"

空色の天鷺織*1の上に散らばった
黄金いろの真珠のすだれのやうに
光の中に輝いて、
白い布の上にひろがつたお前の髪、
それから桃色の二つの頬、
火焔の花びらのやうな唇。
夢の窓のやうな二つの眼、
(左の窓からは若さが、
右の窓からは幸福がのぞいてゐた!)
下したての白粉刷毛*2のやうな
やわらかなそしてやさしい腕
明日満開になるであろう
肉の花の乳房。
そして私の身体中の
一番心臓に遠いあたりで
私の足にさはるお前の足!

半ばめざめながら、
半ば眠りながら、
「人生」がどんなに美しいものに
私に感じられたであらう!……
その頃私にはお金があつた、
その頃私は健康だつた、
そしてその頃
私は若かつた
(これ等のことは
今もその頃も
別に変わりはないが……
変わり果てたのは私の朝の寝床!
さびしく一人、白いベッドにめさめて、
私は今、こんな事を思い出すのだ。

これもその頃の事なんです。
私が幸せに満ちてゐた、
これもその頃の事なんです。

三好達治堀口大学について、
『エロチシズムとウィチシズム*3は、堀口さんの詩に於いて、この仕立て屋が巧みに操る、切れ味のいい鋏の二つの刃であろう。』
と述べている。

それにしても

『そして私の身体中の
一番心臓に遠いあたりで
私の足にさはるお前の足!』

である。何と官能的な事だろうか!品の良いエロティシズムに余計な言葉は不要であろう。正に"分かってる"というやつだ。官能的としか表現のしようが無いだろう。

*1:ビロード

*2:ウップ

*3:witticism:警句・当意即妙