「忌む」から考える境界

「いみじ」という古語がある。
受験古典では非常に頻繁に使われる言葉であるので、馴染み深い人が多いだろう。訳は基本的に「並々でない・普通でない」であるが、文脈上で訳そうとした時には良い意味でも悪い意味でも用いられる言葉だ。

「いみじ」の語根は「いみ」であり、その語源は「忌む・斎む」であるとされる。

また「戒む」という言葉がある(現代語だと戒める)この言葉も同じく語源は「忌ま使める」である。
【戒める】
i.(禁忌を)教える、慎ませる。
ii.警戒する。用心する。  etc

【忌む・斎む】
禁忌と思い、身を慎む意。
禁忌だから決して口にしてはならぬ、触れてはならぬ等として避ける。 (広辞苑第六版)

「忌む」というと現代的な感覚では「何か悪い・穢れた物を避ける、警戒する」という意味で捉えがちであるが、実はこの言葉は良い物にしろ悪い物にしろ、"人智を超えた何か"を避ける時に使われる言葉なのである。

古代人の感覚で「忌む」とは、現世とは別の世界−−−あの世とも単に異世界とも言うが−−−との接触、若しくはそこに住む人智を超えた何か、則ち妖怪、亡霊、神、神霊等との接触を避ける時に用いられる言葉なのだ。

では具体的に異世界とに接触とは何か、と考えた時、それは"境界"という言葉で言い表すのが最も適当だろう。

小学校の算数で習うベン図を思い出して欲しい。二つの円(この世とあの世)が交わる部分、これが避けるべきものである。具体例として時間的には昼と夜の境界である夕方−−−しばしば「逢魔が時」と言う−−−、日付の境界である零時。空間的には辻、川、橋、海岸、トンネル、井戸、ちょっと珍しい所で"枕"等が境界に当たる(辻や枕に関してはそのうち詳しい記事を書きたい)。

「いみじ」という言葉が生まれ、人間に対して使われるようになった平安時代よりもずっと以前から、人々はそういう時間・場所を意識し続けてきたのだ。

またこの事から日本語に於いて境界という言葉が、ある程度幅のあるもの、又違う物同士が混じり合っているものとして捉えられていたという事が分かる。
西洋の観点で境界とは−−−今日私達が数学で教わるように−−−全く幅が無く、どちらにも含まれない物であるが、日本に於いては全く違うのである。

そうするとZUNがどの様なイメージを持って"八雲紫"というキャラクターを作ったのかも分かる気がする。
則ち、ベン図で言う共有部分−−−人間と妖怪のお互いへの干渉、関わり合い全てを支配するモノ、である。